2020年7月24日金曜日

何を恐れるの?パート2

前回パート1の続きです。

また高齢の両親に対してですが、



今の自分をここまで育んでくれたことに、心の底から本当に感謝することができていますか?



そして今だによりどころとして頼ってはいませんか?

どこかで甘えの気持ちがありませんか?




コロナでなくても両親は明日死ぬかも知れませんよ
交通事故?天災? 



それは、わかりません


だれにもわかりません。



ただその日は、ある日突然やってきます。


それだけは100%わかります。





高齢の両親にもう自分の面倒を見てれなくても100%自分は大丈夫だ!という確信をもとにその姿を伝え見せてますか?


…。





見せてる自信がないですか? 




それとも、これから頑張ってそうなりたい?




・・・・・・・






いや…もう見せているはずです。


見せてるんですよ




これは私の思い違いかもしれませんが


ひょとして、自分が高齢の両親の面倒を見てあげないといけない。と勝手に決めつけてませんか?




両親を扶養する義務や責任を過度にもって、重荷を背負いすぎてプレッシャーになってはいませんか?




そして、それが満足に出来ない歯がゆい自分に負い目を感じてはいないですか?




親孝行できずに見殺しにした罪悪感で苦しむことが辛いですか?




それは勘違いです。


年老いてもご両親は偉大です。




たとえ見た目が老け、肉体的には衰えて見えても、絶対に弱くないはずです。



だからあなたが、面倒をみなくても、好き勝手にして見捨てても恨んだりしません迷惑かけてもまったく平気です。



どんなに年老いても親なんです。



あなたのために尽くしたい気持ちはずっと持ち合わせています。




だから、あなたの未熟者で至らない所もすべてを受け止めてくれることでしょう。


だから、コロナに感染させて死んだとしても、なにも恨みません。




これから未来がある世代が、頑張って行く結果の末、死ねたのなら本望という姿勢でいるとは思えませんか?



その時、きっとあなたに

「 ありがとう お前のおかげで幸せな人生だったよ 」


という声を受け取れませんか?


どうでしょうか?




思えないとしたら、自分も年老いて弱った時不安だから、自分も子供に頼ろうという浅はかな気持ちが投影されているのかもしれません。




先人達の礎(意志耐え)の元、私達は今を生きてます。




私は自分の人生を愛して感謝して生きています。
(そしていつの日か この世に別れを告げ死んで行きます。)



もちろんいまだ、いい歳して不甲斐ない所もものすごく沢山あります。




偉そーなことを言って 人上にのってマウントしたいわけでもないのです。(あ そんな時もまったく0ではなく時にありますねw未熟ものなので)



そんな、ほんとうにどーしょーもない所もひっくるめた自分を丸ごと肯定して、今を全力で楽しんで生きると決めてます。



そして生きてる限り少しでも偉大な先人達のような務めが出来るよう成長したいと自分に希望や願いを持っています。




この幸運にも与えられた人生というギフトに毎日にハートを開いて感謝してます。




そう生きることが、私を1人で育んでくれた亡くなった母親への親孝行だと考えるからです。

命を私まで繋いでくれたご先祖への最大の敬意を示す事だとも考えます。



生きていれば、すでに誰かに多大に迷惑をかけて生きてるんです。




殺生し、他のもの命を食らい自分のエネルギーにして生きながらえていながら、マスクをちゃんとして、自粛要請に真面目に応じて、ソーシャルディスタンスをしっかりとって他人に迷惑かけずに生きているつもりなってるなんて、思い上がりです。




それに迷惑はかけた相手に不利益だけでなく利益をもたらし役立ってます。その迷惑かけた問題を解決する立場や役割を相手に与えているのです。

だから汚れ役として有益な役目役割が存在します。



みんなが尻込みしているならこそ、それを買って出ることって素晴らしーことだと思います。




本来なら今、日本は東京オリンピックを通じて世界に対して大きく盛り上がっていたはずです。



世の中こんなにも腰抜けチキンになってたら、来年に延期したオリンピックも確実に中止ですね…。(開催しても、しょぼいオリンピックと歴史に刻まれますね)嘆かわしいです。





金メダルを目指し人生をかけて生きてきたアスリート達はどうでしょう?
これを機に多大な投資をして備えて準備してきた人達はどーでしょう?



リスクをとるのはチャンスのへの偉大なチャレンジです。
だからそんな人を非難するのではなく賞賛したいです。




私は私の人生の金メダルを目指してるので、同じ立場と考えてその機会をもたらす最大限の貢献や支援を自分なりにしたいです。





なぜなら安全地帯に隠れてパイを奪い合うよりも、パイを分けても余るくらい大きくするには、結局は1人1人にかかってきます。





日本人は偉大な力があるのに、和を大事にするがあまりに協調することばかりに目がいって、過度に空気を読んで謙虚に成り下がるのが本当に悪いクセですね、和を乱す出る杭を打って素晴らしい果実のなる芽吹きを摘み取ってしまいます。




でもね、今の事態にまったく気づいていない。また理解する土台がないレベルの人は仕方ないですね



見た目は大人でも、まだまだ人間として赤ちゃんだからです。
(誰しも赤ちゃんの時があったんですから)



その赤ちゃんを見て、自分は自力で歩いているのに
赤ちゃんは抱っこされてズルイ!お前も自分で歩けよ!って責めますか?



夜の街で働くなんてケシカラン!!って過度に責める人間は



いまの自分に無理しているんです。我慢しているです。




大人として生きるのが辛くて、自分も本当は赤ちゃんみたいに甘ったれたいんです。




だから協調に従ってない(我慢してない)人間を批判し責めて鬱憤をぶつけて、正義を気取ってストレス解消の気晴らしをしてるんです。





我慢してストレス抱えて人を避難するよりも、だったら自分のそんな我慢なんぞさっさとやめてしまえば良いです。




自分の本音にもっと寄り添ってあげてください。




なさけない自分をさらしてください。




もちろん短期的に結果を出すために、自分を殺し協調することでうまくいくこともあります。こらえることも必要です。




ぐっとこらえたとしてもそれは最初だけで。我慢なんぞしないで受容すれば良いことです。いつまでも受け入れることができずに過度に我慢を繰り返すのは、問題です。




短期的な結果を求めて、それだけで全部やりくりしようとするのは短略的で視点が低いです。(だって必ず時間がすぐ経って、長期的な問題が目の前の問題として直面して今の問題になりますでしょ?)



それにね、人間本質的に我慢なんて実は出来ません。それは何かの反動で揺り戻され表面に噴出してしまいます。
(歪みが溜まった地殻が地震になったり、マグマが噴火するように)






どんな職業仕事も社会に立派に役に立ってます。どんなにどーしようもない人も生きるに値します。(夜の街で働く人をただ責めて、いったいそれでどーすんの?そんなことより他に自分のできることって何だろう?って考え無いの?)




その職業を、その生き方を担ってくれている人がいて、自分を含めた社会が回っています。その人たちを無能扱いして見下げて正論かざして締め出すことではなんの解決にもなりません。




だから私はまだ、ようやくハイハイしている赤ちゃんにいきなり歩け!なんてよういいません。出来うる限り、ちゃんと歩き出しそうなベストなタイミングを見計らって最適な助け叱咤したいです。




私の人生にもそんな人たちがたくさん現れてくれています。しかも素晴らしく適切なタイミングで出会います。そして有益なフィードバック・フィードファワードをしてくれ今の自分が存在してます。

だから学んだこと体験したことを見習ってこれから形にして、求める方、それが必要な人に返していきます。




その人達は、今は距離が離れていたりしている人もいます。でもそれは、永遠の別れでもなくいまも遠くから見守ってくれています。本当にピンチの時には駆けつけてくれます。そう信じています。



なぜなら、まだまだまだまだまだ自分も未熟な赤ちゃんだからです。だから補助や支えが必要な時には、必要なものが完璧に現れます。


本当に助けが必要な時は、現れるんです。
(だって今までもそうだったでしょ? 違いますか?)




私の母親も突如として亡くなりましたが その存在は亡くなった今も感じます。




だから何も心配はないのです。





なので私は宣言します。
自分の価値観に生ききることに



どうですか?あなたも
一緒にやりませんか?




それでもまだ不安があるのなら、大丈夫!

まだタイミングでないだけです。(そしてそのタイミングは必ず訪れます。というかいつでもそのチャンスは来ています。聞く耳があればいつでも誘われている声が聞こえます。)





まだ不安ですか? 
(いいですよ とことん付き合いますよw)



あなたの足りない部分を私でよければ補います。
そして私に足りない部分を補ってくれる人は仲間になって力を貸してください。お願いします。


だから自分の力を見くびることはやめて 恐れの緊張感を ワクワクドキドキした胸の高鳴りに変えて
死ぬまで夢中に楽しく生きたいのです。




この今に幸せを感じて

この写真は写真家であった父親が撮影してくれた写真です。


もしもいくらか恐れが杞憂になることができたの幸いです。
(コメント イイね シェア レスポンスが励みになります。)

お読みくださってありがとうございました。


それではまた 


2020年7月9日木曜日

何を恐れるの?パート1






「自分がコロナに感染した場合に家族や友人、お客様に感染させてしまう事は非常に恐れています。特に両親は70を超えてます。」

SNSのポストに対して先代から事業を引きつぎサービス提供を職業として業務を行う方からこのような声をいただきました。


これに対して私なりに投稿したいと思います。



細かい前提は存じあげないので、あくまで私の勘違いも多大にあるかもしれないし、適切な回答になっているかどうかはまったくわからないですが

良ければご一読ください(長文です)



まず自分の提供する業務・サービスに誇りを持っていますか?

とお尋ねします。


あらためて自分の提供する仕事がどれだけの人に役に立って喜ばせているか良く良く考えてみてください。

すくなくとも代金を払ってくれる人がいてそれで生活しているということは、値打ちがある証拠です。



私は自分の命という時間を削って積み上げ磨いて提供している業務・サービスに誇りを持って仕事をしてます。



そしてそれは仕事だけではなくて自分に対してもです。自分の存在がどれだけの人に役に立ち喜ばせているのか考えましょう。



目を閉じて、喜んでくれている人の顔を1人1人まぶたに浮かべて、実際に目の前にいるように、じっくりと感じ味わって下さい。



…。


マインド ハートが満たされてフル(満タン)になりましたか?


フルになってませんか?



まだならば、もう一度じっくり満たされているまでおこなってください。


フルになったのなら 
話のつづきを聞いてください。




私は世の中に自分の価値を届けるために職業・仕事を邁進する結果、不幸にも感染症を撒き散らすことになってしまい、想定外のどんなことが起こることも覚悟しています。(どんなに感染症対策をしたってなる時はなるんです。なったのならそれがサダメ運命ということです。)



その前提を心に留めます。




私の提供する仕事は、私のこれまでの人生をかけて磨いてきた命の結晶なので、単なる金銭のやりとりだけではなく命の結晶と交換してもらうものだと考えています。


なので不運にも仕事を提供することで死ぬ人が出たとしても、命の結晶ではなく、実際に命そのものになることも時にはあるんだなぁと自然体で真っ正面から受けとめます。





その結果、批判や馬頭する人が実際に現れたとします。


そして、あなたのファンと称した人がその一面だけ見て、解釈を翻し離れる人が続出したとします。




恐怖ですか?




私は平気です。


なぜなら絶対に私の商売が潰れ行き届かなくなっては困るという人が必ずいると考えます。そのつもりで仕事に向き合ってきました。



去った人がいるのなら、もっと良い人に私の命の結晶を渡す空きが生まれます。



でも、それは単なる私の勘違いの独りよがりで、そんな人が誰もいないかもしれませんね、良いです。一向に構いません。



価値がうまく認識してもらえないことだってあるし、気づくタイミングがうまくマッチしなければそんなことも当然あるでしょう。




ではこの瞬間に味方は誰もいないですか?




味方は0じゃあないですね。


最低1人はいます。




自分がいます。自分は自分を裏切らない味方です。



私は自分を信じています。(全世界の人が敵になったとしても、家族も身内も愛想つかして離れて行ったとしてもひとりぼっちでも自分は自分の味方です。)

もしも味方が誰もいないと考えるのなら自分が自分の味方をしていないので、自分が自分を苦しめる1番の敵になっているのではないでしょうか?



そしてそれは自分を諦めている証拠だと思います。



本当に困ったら、恥をかくことを恐れずに主体性をもったうえで堂々と世の中に広く援助支援を求めます。




もしそれでもダメだったとしても平気です。



どんなことも受けいれると覚悟します。




それで仮に商売が終わっても、私自身が終わったわけではないです。




それはそれで綺麗サッパリ裸一環で再スタートをきって生きていきます。




世の中、なんの負い目なく不幸な仕打ちを突如として受ける。そんな人たちはコロナに限らず沢山いますよね(交通事故、震災や原発事故、自然災害 拉致被害 猟奇的殺人事件etc…。)




だから、たまたま今度は自分にその番が来たんだなぁと受け止めます。




そしてそれは選ばれているんだと思います。何故ならそれを耐えられる人、努められる資格のある人のもとにしかその役が配られないからです。だからとても名誉なことです。



今の日本は幸いなことに生活保護を受けるなりすれば、飢えや渇きで餓死して死ぬことはないです。ものすごくラッキーな時代と場所に生まれたものです。死ぬこと以外はかすり傷です。(でもホントは死ぬことすらもかすり傷ですけど、まあこれはまた別に機会に詳しく..。)




また高齢の両親に対してですが、

まだまだ長くなるので続きます。