2017年12月31日日曜日

心のバケツの穴 パート2


前回のつづき 




別の考え方ですが




どんな考えかというと




・・・・・





実は 心のバケツは 一つじゃないのです。





あなた 「 えっ? 」







あなたの気づいてないところで



満々に満ち溢れている心のバケツをすでに持っています。








あなた 「 あの〜 それが無いから注いでいるんだけど.. 








ウンウン なるほど あなたがそのような認識、見解なのはあなたの自由なので、止めはしないです。



これはあくまで 考え方なので







すでに満ち溢れたバケツがあったとしら という前提で


考えてみてください。



さすれば今、必死になって穴の空いたバケツを満たすための水を性急に入れなくても良いですし







もちろんあなたが望むのならば、今までと同じように一生懸命にバケツに水を注ぎ続けても良いでしょう。





穴をどんな方法で塞ぐのも、漏れても良いから構わずに注ぎ続けるのも

どんな手法、どんなやり方であってもあなたの好き好きで行う自由もあります。








どちらを選ぶかは、自分の好きにすれば良いのです。







つまり どちらでも良いのです。




もうすでに心のバケツには水が満ちているのですから。







私は好きでこれをやっています!」



やりたいからやる!





それが本当に自分の好きなことで、

迷いなくやりたいことが実行出来ているならば


本当に素晴らしい!ことです。





好きなことをやっているって楽しいものです。

(今好きなこと、やりたいことやっておかないと、後では出来なくなってしまいます。たとえ後でやったとしても意味が変わってしまって、その時得られたやった感は得られないかもしれませんから)




でも 不思議なことに



好きなことをやっている。と言いながら


苦しんでいる人がいます。





違いはなんでしょうか?









いつでもやめたくなったら注ぐのをやめるオプションを持っていつつ
好んで水を注ぎ続ける人生を日々生きるのと




本当は注ぐことをやめるという選択が出来ないので、しかたなく注ぎ続けている。




ホントは注ぐことをやめたくともやめられない。




ってことでは、ないですか?







そんな自分を認めたくないから



認めることが、怖いから





それだったらと・・・自分は注ぐことが大好きなんだと思い込むことにしただけなのが本当の真実だったとしたら・・・





盲目的に注ぐって事を手放すことが出来ずに、これが唯一の手段として必死にしがみついていて





注がないといけないという脅迫観念に、単に囚われているとしたら・・・







もしも、そこを認識する感覚ごと




ごっそり抜け落ちて一瞬も気が抜けづに必死に注いでいるとしたら・・・・




「私はこれが好きなんだ!」 と叫びながら






・・・・・・







仮に一所懸命に注ぐ行動は同じでも




これは、

まったく意味が違っていることは、お分かりですか?






でも面白いことに周りから見たら 




やっていることは、まったく一緒に見えます。 




時にそんな姿をあの人はすごい とか 偉いね とか 



誰かが評価してくれたりするかもしれません。




でも ほんとのところは どーでしょうか?





・・・・・・







ここに気づくか気づかないで、人生の意味は劇的に変わってきます。






あなたには 自分の満ち溢れている心のバケツが見えますか?




ここで勘違いして欲しくないのは「足るを知る」ということで




大人として聞き分けよくおとなしく我慢したり、諦める、という。単にやり過ごし、かわすことではなく





人生で心から求めるものはガリガリと立ち向かう方法でなくとも、手に入れようと本当に思えば、勝手に近づいてきて、普通に手に入れることができるということが真実なのです。




2018年も自分の満ち足りている心のバケツをしっかりと見据え、やりたいことを実行に移して行きたいと思います。




良いお年を


パザパ
根津大介





2017年12月10日日曜日

心のバケツの穴 パート1

あなたは絶対的に心が欲しているものはありますか?







欲しているものを求めて求めて求めて
追い求めてどこまでも行く...


そしてその行動の結果

実際に求めるもの手に入れてみたとしても
不思議となぜか渇きを感じる。



なので、また追い求める・・・

欲しているものを満たしたはずなのに、満たされない??
なぜ 心が満たされないのか?







・・・・・・






心のバケツにかき集めたものをどれだけ 注いでも
満たされている感を感じているのは、ほんの一瞬で
なぜかすぐに 抜け落ち 欠乏を感じてしまう。。



・・・・心のつぶやき(「これってなん なんだろう」)



この疑問を埋めるのに こんな考え方があります。





それは 【心のバケツに穴が空いているから】




だから いくら頑張って バケツの中に注ぎ込んでも
入れたものが漏れ出てしまう。




全く気がつかず注ぎ続けているうちに日々は過ぎていくので


そのまま人生生きていたら 大損ですよ






誰も 穴が空いているとは 教えてくれないですよ
(本当は教えてくれる人はいたとしても 認識出来ないのだから いないも同然)






早いところ穴を見つけて、まずその穴を塞ぎましょう。。


塞げば、注いだものが抜け落ちずに溜まったまま満たされ続けますよ

という話になります。







なるほど! そうか!! わかったぞ!!!


「 穴はどこだ 探せ!! 」


「 あった! ここか穴は! 」

「それでは よし!早速穴を塞ぐぞ!」

(と穴を塞ぐことに注力しそして注ぐ)



「 どうだ!? 」


む・・・ いや穴の塞ぎ方がイマイチだったみたいだ



また滲み出てしまっている。。





ならばこの塞ぎ方でやったらどうだ!?



それ注げ!どうだ? 




「 よし! やったぞ!! 」



・・・・ん?



 


あれ? 今度は別の穴から 漏れている? 



そんじゃそっちも塞げ!!



これで どうだ?



「 ウンウンよっしゃよっしゃ! 」



「 漏れていないぞ! よし これで OKだ!! 」



....って感じです。



と まあこれも 単なる一つの考え方です。




この考え方を採用して、つき進むことが迷いなく行える方は、これで良いでしょう。




でも、この方法で突き進んだ結果何か違和感を感じる方は別の考え方もあります。 そもそも穴があいていたからといって その穴を塞がなくとも良かったとしたら? それでも欲するものが手に入る方法があったとしたら・・・?




そんな考えに興味はありますか??そんな別の考え方が実はあるんです。



続きは、また次回。。






2017年10月31日火曜日

舶来の行事と古来から行事


by中二中三の娘どもの落書き

10月は雨ばかりだった気が・・・



昨日・・・

いつもゆうパック配達してくれるお客様Sさんが配達ついでに
 

Sさん 「 年賀状お願いしたいんですけど・・・良いですか?」

(年賀状の申込書片手に)


私 「 良いも何にも もう書いといたよ 」

(以前に渡されていた申込書渡す)



Sさん 「 ありがとうございます! 」




私 「 今年は喪中だったからね 」


昨年は喪に服していたので年賀状書いていませんでした。




ハロウィンって本当に年々定着して盛り上がっているけど


年賀状書いたり 門松飾ったり おせち食べたり
日本の行事は年々衰退している気がするよなぁ



夏が終わると本当に早いですね 明日から11月
あと2ヶ月で今年も終わり。。





1年が早いね



2017年10月28日土曜日

悩み相談から始まる自己対話パート2

つづき

問題から逃げおおせ すり抜けたと思ったとしても
実はそれは根本の解決ではなく一時しのぎだったとしたら...

応急処置の対処に 永遠と追われ続けます。。


「 でも... どーしようもないから・・・ 」



本当に100%そうでしょうか?
そう思うのは、自分の認識が作り出している幻想であるといえませんか?



 
もしも幻想に自分が縛られ操られているとしたら・・・・幻想に操られて生きる
人生は、それってある意味では命を落とすのと同意と言えるかもしれません。




だって本来の自分の人生を捨てて、別の人生を生きているのですから...
それでは生きていないのです。 本当の自分を(が~ん)




もしあなたが、なんとなく毎日を送っているそんな自分に対して、なんだかモヤモヤしたものを感じる。何かが違う...湧き上がる違和感が拭えない本当の理由はひょっとしてそこにありませんか??



ですが、たとえそこに気がついたとしても、なかなか現状を変えられません 誰も…(ぇえ、モチロン私もその一人でさぁw)本当に悩ましく困ったもんです(苦笑)



ここを乗り越えるヒントをあえていうならば
やはりそれは問題のジャッチをしないのがポイントでコツなのです。



どんな事柄であってもそこにはプラスもマイナスも両方ある。



人間なら悩みや問題はたくさんあります。それは絶対に誰にも明かせない恥ずかしいことかもしれません。社会的に人の道を外した褒められない出来事であるのかもしれません。だとしても、それはとても普通のこと、誰にだってそんなことの一つや二つ(いやもっとたくさん!)あります。




他人や問題に対しての険悪感や怒りや悲しみ恐れや恨み、自分に対して色々な罪悪感や自己嫌悪、羞恥心を覚えるのは、いつだって自分の判断ジャッチから始まる。
 



自分がジャッチしなければみ自体は なる事柄の一つ 
なる客的事でしかない プラスもマイナスもないのです。



ジャッチすることで自らが作り出した悪夢に囚われ、痛みを避けるために
ファンタジーに逃げ込んでしまいます。




全ては自分の認識が作り出している【幻想まぼろし】と捉え、どんなことであっても否定しないで そのまま受け止めた上で、そこを超えていくことでしかどうやら先へ進む扉の鍵は手に入らないようです。





季節が変わって行きます。 この流れに乗って気持ちを新たに扉の先へ進んでいきましょう!




人生に年齢制限はない!!何歳になっても今の歳を生きるのは初体験なんですから失敗を恐れずに



2017年8月4日金曜日

無くなってないのは 本当 パート2

つづき


まどろみの中で



混沌とした意識の中



はっと気づく



かけ布団の上に 
ある人物(Aさん)が立っている





その人物はいつも私の価値観にチャレンジを与える人物





なんで あなた(Aさん)が ここ(寝室に)いるの!?




ん? そんなはずないよな




鍵は閉めて戸締り完璧にしているし 隣には家内も眠っている




あれ? そか これって 夢か?




でも 立っている気配はあまりにリアルだ




気配がある場所に そっと手を伸ばして探ってみると



手に足の感触が・・・しっかりとある!?




(これは 夢なのか?)




と その時 




突如 ぎゅーっと布団全体を覆いかぶさる圧力が襲う




それと同時に 涙がドワーっと溢れてくる。




その確かな全身に及ぶ圧迫感を感じながら




その時に 実感と共に知るのです。

 


愛に包まれていると言うことを




母親が 今ココにいる




いや いつも そばに存在があるということを




全力で力を一杯込めて 抱きしめてくれている




いつも いつも 変わらず愛情を注いで 見守ってくれている




チャレンジに大きな愛がある




ということを




誕生を祝ってくれている。 




私に大きな気づきのバースデイギフトを授けてくれている。




亡くなっても 変わらず エネルギーは いつもそこにある。




それが わかった瞬間に




体がぐっと軽くなり




一瞬で深い眠りに落ちました。




小さい子供が ぐったりとぐっすりと眠り落ちたように...




あれほど眠れなかったと言うのに








・・・・・




目が覚め 朝



朝食を取りながら 夜の出来事を思い出し



長女にたずねる。




私 「 そーいえば 昨日夜遅くに一階のトイレに行ったよね 」



長女 「 え? 行ってないよ 」



私 「 うそ? 」



長女 「 うん だって一回も起きなかったし 」



私 「 マジか? 」



長女 「 別に マジだけど・・何で? 」



私 「 いや 何でもない・・・ 」



長女 「 ・・?・・ 」



私 「 ・・・ 」



長女 「 ・・?・・ 」




私 「(心の声)やっぱりいたんだな 」




充電しているiPhoneのFBにプッシュ通知の赤い



誕生日のおめでとうコメントが・・・



そのコメント中に

母親をリスペクトしてくれていたお客様からの祝いの言葉として

次のメッセージをもらいました。




「誕生日は産んでくれた人に ありがとうを伝える日」





『いつもありがとう これからも見守っていてください』





自分の姿を 今ココにいる大切な人に見せましょう



喜ぶ顔が見えますか?



感じますか?





誕生日家内は読み聞かせボランティアの打ち合わせのため部活帰りの娘を連れ食事


母親には好きだったらジンジャーエールを
私は運転なのでオールフリーで (娘よ早く運転免許取ってくれ)



2017年4月28日金曜日

無くなってないのは 本当

微睡みから覚醒しかけたその時


「ハッピーバースデー!」


目の前の焦点があったその先には
妻と娘の姿が



時計に目をやると24:00をまわっている。



どうやらリビングでうたた寝しているうちに誕生日を迎えたようだ




就寝の身支度をする2人にありがとうと伝えながら、寝ぼけまなこのまま浴室へ





「45歳か…」





物思いにふけつつシャワーを、浴びユックリと湯船に浸かる。









入浴を、終えタオルで髪を拭きながらリビングに戻ると妻も娘の姿もない。



就寝したようだ もう1時もとっくに回っているから当然だね。。




私はスッキリ目が覚めているので




考えごとをまとめたノートにしばし向き合う。







おもむろに充電ケーブルに繋いでおいた100%満充電のiPhoneを見るとFBのプッシュ通知が…




タップすると誕生日おめでとうのコメント




返信のコメントを打ち




そろそろ寝るかとiPhoneをもって




1階のリビングから2階の寝室へ




寝床につく









珍しく眠れない(うたた寝したとしても普段だったら5分とかからずに寝入るのに









再びiPhoneを手に取る。





なんとなくメールチェックし
なんとなくウェブを、ブラウジング









ホーム画面にもどると


FBに再びプッシュ通知、さっきFBの返したコメントにスタンプ返ってきている。


イイねして、スタンプを返す。






まだ寝付けない





iPhoneを置き





瞼を閉じ、じっとたたずむ




すると




一階からかすかに物音が、人の気配を感じる⁉︎この時間に?




……


そして この物音はどこか聞き覚えがある。




そうだ亡くなった母親がいつもたてていた音と、そっくり…⁉︎








いや、そんなわけないよな





でも、、しっかりと音が聞こえる。





それじゃあ、誰かいるのか?泥棒?強盗?





耳を澄ませ物音に集中する。









1階のトイレの流す音に階段をのぼってくる音、2階の部屋のドアを開く音、閉める音





なんだ長女か




でも、夜トイレに起きるなんて珍しいな





そう考えながら、再び微睡みの中へ




つづく
スタッフ岩瀬にいただいたケーキで祝っていただきました。




2017年3月6日月曜日

悩み相談から始まる自己対話

>自分自身をさらけ出すのに恥ずかしい気持ちがある
>人に良いように見られたい >嫌な部分を知られるのが不安 




人に本当の自分を見せることを恥ずかしく感じる。
その部分を隠す必要が生じてなるべく自分を良く装いたい



正直な心の思いを自ら把握し、しっかりと受け止めることができたら・・・



本当の心をオープンにする


それは人前で、服を脱ぎ捨て裸になる。というのと同じようなもの
普通は抵抗を感じ躊躇してしまうものです。



なので気にはなるけど後回しにしてしまう。。



でも本当は後がなく【いつもその時はその瞬間の一時である】ってとを知ることって難しい...人間追い込まれないと、今ここに生きることを気づけない




体が深刻な病や怪我で 命が危ない時にお医者の前で裸になることを
躊躇する人はいないでしょう。


でも 死ぬほどでなかったら どうでしょうか??


風邪だったら お医者に行かなくても ほっとけば治るから
「 私は死ぬ訳でないから 医者には見せないで大丈夫だろう・・・」

そんな 判断も余裕にできることでしょう。
ただ!大きな深刻な問題を軽微な問題とはき違えてしまうしまうリスクがあります。


たしかに、小さな問題をイチイチ大げさに取り合っていたらキリがないのも事実


でも これはってときは 人間不思議な直感が働きます。


問題に向き合うことを避けて生きていてはいけない ことを教えてくれる。
せっかく教えてくれているのに あなたは無視していませんか 大切な教えを?


ズバリ言いますが

重要な課題、問題をそのまにして放置し、嵐が過ぎるのを待っていてなんとなくやり過ごしているだけの人は、その自分が越えることができない問題や悩みは大抵 本質的に乗り越えられるまで、絶えず形を変えて起こり続け、あなたの前に常に立ちはだかります。


たとえどんなに問題からすり抜けうまく対処した。逃げおおせた!
と思ったとしても・・・ 

..つづく

2017年2月14日火曜日

受け取れる人に・・・


気がつけば今年も明け、すぐに母親の1周忌を終え2月も半ば


あと1週間で母親の誕生日(2/20)が来る


生きていたら60代最後の69歳の誕生日
 


思えば

母子家庭の母親を助けることを自分の人生の中心にそえ、人生を生きて来ました。


小さい頃から たすけを求められていた。。



私の生きる上での最も大切にしている価値観が3つある


その価値観のその1つが

「 た(介)すける 」
(大介という名をつけられた通りなのですが)




そして責任感を持ち、人生に臨んで来た。





私の価値観の一番上位に 据えられている 「たすける」という価値観を

表現するために 私は母の元に生まれて来た。とも言える。



たすけると いう価値観は今


誰に どこで どう 発揮するのか・・・?





・・・・・




「人をたすける」ため 忘れてはいけないこと





それは、自分を「たすける人」の中に入れるということが死ぬほど重要である。







これをスムーズに実行するための鍵があります。




その鍵は



「 楽しむ 」




最近、周囲からもたらされ、繋がったインスピレーションだ。




なぜなら 「 楽しむ 」を実行するためには



心に余裕がないとできないから・・・



全力で力を入れていてはどうしても体が硬くなる。


体が硬直し、緊張した状態では、効果的に最大のパフォーマンスは発揮できない





もっと柔軟に




リラックス





全力を出すときほど リラックス




無駄な力は 体を硬くし動きを悪くする




それができないと、パフォーマンスをうまく発揮できない



当然 結果は・・・・





力を抜くことが、上手くできると



余裕ができる 余裕 ゆとり 遊び 緩みがあることが



パフォーマンスを発揮することにつながる 



自分のもつパフォーマンスを100%発揮しきれば結果も出る確率は上がるでしょう



仮に成果が出なかったとしても、良いのです。



辛さでなく 楽しさや ワクワク感 面白さ


つまり 快


が 湧き上がるのですから



それこそが本当に自分の人生を 生きることになる




過剰なプレッシャーはいらない



ただ ただ 楽しむことができれば、力は勝手に抜ける。









力が抜けないと自分では気がつかないうちに、責任感で身を固めて行きすぎ、自分を追い込んでしまうことも同時に起こってしまいがち


責任感というものの結晶化には メリットをもたらすが

それと同量のデメリットもある



それが時に 自分に辛いことを強いてきた


まさに必死に必死(必ず死ぬで必死)


責任感至上主義のために人生を生きては、自分を殺すことになってしまう




目的がずれてしまっている。。



自分を殺していたことに全く気がつけない、見えていないと


それは 私の価値観の 「たすける」と真逆の実行を 無意識に自分自身にしてしまう。




自分が苦しい状態では 人をたすける 余裕を失う



これでは 私の価値観の実行を阻んでしまう




違和感を感じるのも当然だ




「 では あなたはもう人をたすけるのはやめて生きますか? 」


と問われたら



「 いやいや やはり自分は人をたすけたい 」


と返すでしょう



そのために 人生を生きるのが 私なのだから


これは 単に

私のアルゴリズムに責任感という思い込みの認識のプログラムエラーが生じているだけです。



これでは、セキュリティーホールからウイルスが侵入しバグが生じます。



その結果、自分の人生を楽しむために受け取れるものが


受け取れそうになりそうな時に手から離れるのです。



ただ待ってななくても 違う努力を重ねるよりも



認識のプログラムエラーを解放し、修正更新プログラムをインストールすれば、



今すぐ 受け取れる



今すぐ 正しい実行がなされる



誰もそれを咎めはしない




だから 怖がらずに楽しむ